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清野 東至

誕生日に負った痛手

私は誕生日の当日に転倒して右足首を骨折した。その結果、一月と少しの間入院したのであるが、その入院の時のことと、退院後のことについて書いてみたい。



右足首を骨折し一週間後に手術して、それから約一月、病院での車椅子での生活である。トイレとリハビリの時間以外はベッドの上の生活であった。食事も朝昼晩と何もせず出てくる。朝昼晩の食事を毎日作っている方には、天国なのかもしれないが、夕食だけは楽しみで作っている私にとって作る楽しみも奪われてしまった。

話すのも看護師さんとの短い会話のみである。そんな生活を送っていると、身体はそんな生活に慣れてきてしまう。私は入院して1ヵ月ちょっと経った時期に、医師に家でのリハビリをしたい旨を申し出た。幸いにもリハビリに必要な平行棒を持っていたので、その申し出は受け入れられた。

家に帰ってきて入院前のように訪問リハビリを受けてみて感じたのは、1ヵ月ちょっとでもこんなに体力と話す機能が落ちるのかということである。もちろん足首を骨折したのだから骨折した足は使えない。それはしょうがないとしても、体幹機能もかなり落ちていた。

それとともに驚くのは、言葉が出なくなったということである。身体はリハビリで少しは動かすのだが、言葉のリハビリ(ST)は全くない。日常会話もほとんどない。病室で、発声練習するわけもいかない。

そこで、私が心に刻んだことは、まず入院しないことが大切であること。もちろん、入院しなければいけない時には、入院は必要であるが、私が言わんとするところは、入院をせずに済む生活を営むことである。病気、ケガ含めてである。

1年続けてきたリハビリの成果も、1か月の入院でまた振出しに戻ってしまうのだから。

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