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始まり

私が最初に神経内科の門をたたいたのは38歳の時である。それまでは、症状を同僚に隠し、自分自身にさえ嘘でごまかしてきたが、同僚はともかく、自分自身に対して嘘を付きとおせなくなってきたからである。

原因はわかっていた。脊髄小脳変性症(SCD)、母親からの遺伝である。

他人はともかく、ちょっと風邪気味だの、疲れているからだの、睡眠不足などの理由ではもう自分に対し説明がつかないレベルに来ていた。言葉はろれつが回らず、歩くとフラフラしてしまう。視界は二重に見えるし、むせると咳が止まらない。これらの症状は,かつて見た私の母の症状と酷似していたからである。

 私はそれまで、脊髄小脳変性症の症状のあることを否定したいばかりに、自分の身体の変調に合わせ言い訳してきた。

その言い訳に私は疲れてきた。もうこの辺で病名の宣告を聞いたほうが前向きになれるのではないかと感じた。

 そして神経内科のクリニックの門をたたいたのである。

それからCTやらMRIを撮り、最後は血液検査での遺伝子診断である。

結果を聞きに行った日の記憶はそれほどない。

確か医師が、脊髄小脳変性症であると静かに言ったような記憶がある。脊髄小脳変性症との確信があったので、動揺もしなかった。

私はようやくこれで、遺伝しているか、していないかというどっちつかずのヤジロベエのような精神状態から逃れることができた。その時は一時的に解放されホッとしていた。         

それから望まない脊髄小脳変性との共同生活が始まる。

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